活動レポート

リレートーク「藝・文・京」キック・オフ!~AI時代における、文化・芸術の可能性

京都市芸術文化協会創立40周年にむけての公開ミーティング、第1弾!

 公開ミーティングやトークセッション、勉強会など、形にとらわれることなく意見や情報を収集し、今ここで答えを出すのではなく、約1年半をかけて未来の「芸文協」の姿を描き出していくという試みです。

 第1弾となる今回は、めまぐるしく変化する現代社会の中で、文化・芸術がどのような役割を担うことができるのかについて、意見交換を行いました。

 

 

「AI時代における、文化・芸術の可能性」【2019年11月11日実施】

|ミニレクチャー|

 近藤 誠一(理事長/近藤文化・外交研究所代表)

|トークセッション|

 茂山 あきら(理事/大蔵流狂言方) 松尾 惠(理事/ヴォイスギャラリー主宰)

 進行:中谷 香(専務理事)                 詳細はこちら

 

 

AI時代における文化・芸術の可能性〔近藤 誠一〕

一元化される価値への問題意識

 まずは、なぜ私が芸文協のこれからを考えるにあたって「AI(artificial intelligence=人工知能)」をテーマに取り上げたかという、問題意識を申し上げたいと思います。

 最初に、1845年にアイルランドで起きた「ジャガイモ飢饉」を例に挙げてお話しします。当時のアイルランドはイギリスの支配下にあり、奴隷のように扱われ、北方の荒れ果てた土地しか与えられませんでした。アイルランド人はそこで、太陽の光から最も効率よく栄養をつくり、荒れた土地でも育つジャガイモを育て、なんとか飢えを凌いでいた。ところが、ヨーロッパにジャガイモの疫病が蔓延し、アイルランド全土にわたってジャガイモが全滅。その結果、食料をジャガイモに依存していたアイルランドでは100万人以上の人々が餓死し、100万人以上が北アメリカに移住をするという事態に陥りました。

 この悲劇が何を語っているかというと、ひとつのことに頼り、替わるものがなければ、環境に変化が起きるだけで悲劇的な事態に陥ってしまう。たとえそれがいかに効率的で合理的であっても、多様性を備えていなければならない、という教訓だったはずです。

 ところが今の私たちの生活を考えてみると、知らず知らずのうちに何かに頼り過ぎている。もっと楽になりたい、もっと遠くに行きたい、もっと便利な生活がしたいという気持ちが逸るあまり、実は危険な一元化─「標準」に頼り過ぎる生活─に陥っているのではないか、ということを反省しなければいけません。

 

英語 ─ 利便性と合理性

 そういうものは数多くあるのですが、ここではふたつ紹介します。ひとつは「英語」。軍事的・経済的な影響を背景に、あるひとつの民族の言語が普遍語になりました。

 英語を使えば世界の多くの場所で自分の想いを伝えられる。便利ですよね。

 英語の普遍化が進めば進むほど、それ以外の言葉は廃れていく。ローカルな言葉で発信しても世界で活躍できないし、英語への翻訳に馴染む言葉や表現を選んで使うようになります。そうして益々、英語的な論理に思考が一元化されていきます。

 しかしその便利さの裏で、気づかないうちに失われていくものがある。それは他の言語に独特な表現です。日本語らしい言葉・表現というものも消えつつあると思います。情報のスピードが好まれる時代に、微妙なニュアンスをもった言葉や言い回しは嫌われますよね。情緒を含む豊かな表現が使われなくなれば、その言葉の裏に含まれたある感覚や観念、思想すら失われてしまいます。

 それぞれの言葉に含まれる豊かな感性や思想は、全人類にとっての財産であるということを共有していかないといけない。そこに「多様性」の価値や魅力があると思います。

 多様な言葉、多様な考え方があれば、ひとつの思考形態では処理しきれない情報にも対応できる、という事なのだと思います。

 

AI的思考 ─ 論理性

 実は、同じことが「AI」についても言えると思います。

 「AI」は「アルゴリズム(=問題を解くための手順を定型化したコンピュータープログラム)」を用いて、条件をひとつずつ「0」か「1」かに選別し、整理していくことで複雑なことを解決していく算法です。コンピューターはそういった選別や計算が瞬時にできるので大変便利です。

 自然科学や科学技術は、論理性・合理性を求め世界の「必然」を捉えて発達し、それを産業に利用することで人類は文明を繁栄させてきました。

 しかし世の中の神羅万象を合理的に「0」か「1」かに振り分けることはできません。感情・情動・感性等の偶発的な動きは、合理的には解決できませんよね。

 AIの活用に偏りつつある社会の中で、私たちは感性、美意識、創造性、直観、ひらめき等の人間特有の能力を疎かにして、AI的な手法に一生懸命になっている。しかし、人間は人間たる感性や創造性こそ磨いていかないといけなのではないでしょうか。

 

文化・芸術の役割 ─ 感受性・多様性

 では、どうすれば感性を磨けるのか。それは文化・芸術です。

 美術でも音楽でも伝統芸能でも、いい音楽を聴く、美しいものを観る、いい経験をする…なにか芸術に触れることで、ひらめきや芸術性などの感性は磨かれます。AI時代にこそ、人間が人間たりえるために文化・芸術は重要になります。

 子どものうちから意図的に感性を磨いていくためには、家庭でうける教育、学校教育、職場での教育、そして社会での教育が必要です。教育機関だけではなくて、家族にそういった発想があれば、芸術に触れて子どもたちは感性、インスピレーションを育み「いいもの」を評価できるようになる。

 社会に出て仕事に就くようになると「ガバナンス」が求められ、数字、スピードに追われる。合理的・効率的な処理が必要とされる。けれどもそれをこなすうちに、人間にしかできないことを疎かにしてしまわないよう、人間の創造性を家庭や社会で育まなければいけない。

 これからの芸文協は意識的に、人間の人間たる「感受性や創造性を社会で鍛えていくこと」、また、合理的思考への一元化に陥らないための「多様性の維持」を意識していかないといけないと思っています。その土地性や民俗性の価値、それぞれの人間から生まれる感情や情動の多様性を大切にすることです。

 東京の一極集中(一元化)にならないように、京都は京都の、その土地それぞれの地域性や感性をしっかり持って、その違いの奥にあるニュアンスを表現する力、また感じる取る力を持つことで、それぞれの特徴や特性が活きる豊かな文化を、人類全体としてつくりだすことが出来る。便利な手段や価値感の一元化に流されず、多様性を受け止める感受性や創造性が重要となるでしょう。

 

 

トークセッション

曖昧なものの価値

茂山 すべてをアルゴリズムの「1」「0」の二進法で考えちゃうと、「0.75」とか「0.3」とか、スイッチの「オン」でも「オフ」でもない部分の意味や価値のようなものを見失ってしまうのではないかと。芸術というのは、中途半端なふわ〜っとして何かわけの判らない存在に価値を見出せる、そういう感性から生まれてくるのではないかな。

 「できることの便利さ」の他に、「できないことの魅力」ってのもあって、私たちはそういった〈すぐに役に立たないかもしれないもの〉をもっと創っていかなきゃいけないんじゃないか。そういうものの中に、文化というものが醸成されていく。AI技術などのテクノロジーは手段ではありえても、実態のないもの。便利さに騙されないように、僕たちはアンチ・アルゴリズムでなけりゃいけねぇや、って思うんですよね。

近藤 日本文化は特に「オン」でも「オフ」でもない状態に価値を見出しますよね。

 例えば、「月」。「朧月」であったり「十六夜の月」であったり、見えない月や欠けていく月に想いを馳せたりする。

 そう思うと、子どもたちはもちろん、大人たちにももっと古典に触れて欲しい。ちょっと難しいけど原文でね。それも未来へ渡すべきバトンのひとつかもしれないですね。

茂山 確かに、古典の中にヒントがあるかもしれない。

 私は狂言師として特異な文化に携わってきました。茶道とかもそうですけど、「道」のつくものって「1」でも「0」でもない、その隙間にあるものの価値を探す旅をずっとしている、そんな気がします。

 ちょっと前までは、ふわ〜っとつかみどころのないものの中にある魅力を見つける能力を、誰もがあたりまえみたいに持っていたんだけど、今の時代、なんでも合理的で論理的な「標準」の価値観に縛られちゃってるのかな。

 

古典を知る ─ 現代を裏付ける説得力

中谷 先程、茶道の話が出ましたけれど、会場にお越しの関根秀治さん(茶道)いかがでしょうか?

関根 今日のテーマをみて、「AI時代における文化・芸術の可能性」ではなくて、ほんとは「文化・芸術時代におけるAIの可能性」なんじゃないかと思っていました。

 京都はもっともっと人材を育成し、文化・芸術が今のこの社会の中で大きな役割を果たせるような仕組みを考えていくことが大切だと思います。

近藤 京都は「石を投げれば家元に当たる」と言われますけど(笑)、東京に比べて恵まれていますし、全国的に見てもまだまだいい状況です。

 子どものうちから、なにかの芸に自分を注ぎ込むという経験は、文化の領域において大事なこと。そういう雰囲気が社会の中にできてほしい。京都はその理想的環境に一番近いと思いますので、ぜひ牽引してもらいたい。

 以前、門川京都市長が「眼はふたつあるから、ものを立体的に見ることができる。東京と京都という二つの眼が必要だ」と話されたことがありますね。

松尾 時間にも立体視というのがあるかなと思います。私は普段は現代美術といわれる分野の、いったいどうなっていくか判らない作品や人と仕事をしていますが、伝統芸能などの古典は財産だという想いがあります。

 私たちには過去があって、過去の革新的な人たちがつくってきたものが現代の表現にもつながっているということ、古典を知っていないと、現代美術といったところで、説得力に欠けてしまうんですよ。実際、私も芸文協を通して伝統文化や芸能に触れることがなければ、現代美術しか知らないでいたと思うんです。

 なので、ものごとの深さや複雑さを、古典から学べる環境がどれだけあるかも大事です。古典に触れるきっかけや環境づくりも、この協会ならできるんじゃないかと感じています。

 

芸術性と機能性 ─ ツールとしての技術

中谷 衛藤照夫さん(建築)、いかがですか?

衛藤 なにか判らないものの全体像をほわっと捉えることが、思考や行為、芸術のスタート地点で、それを分析して説明しようとしているのがAIなのかなと思いました。

 建築には必ず「機能」が必要で、「形」だけでは「家」にはならないんです。経済的なことや構造的なことを考えて、どうしても「1」「0」的な選択を重ねて決定していく部分があります。それを僕たちはどう乗り越えて、時代や人の求めるものをつくるのかを考えていかないといけないと、つくづく感じました。

 直観で、情動でどう捕まえるかが、それぞれの表現や芸術性につながってくるのだと思います。

茂山 分析さえすれば、AIならなんでもパーンってできそうな気がするんだけど、人間は割り切れない曖昧な何か—「1」と「0」の間の存在を知っているからできることがある。

 その隙間にはまだまだ大切なことが埋まっていて、そういうものを、私たち芸術家は発見していかなければならないですね。

衛藤 ここで語られたことが、単純に損得勘定で選択されて進んでいかないということが、何より重要だと思います。

 今すぐ経済や政治に役立つのではない物事にも価値があることを、芸術は判っていなくてはいけない。芸文協がその意見を反映していける組織であるということが、何よりも求められていることなのかな。

 

複数のものの間に生じるなにか

松尾 この協会も若い人に関心を持ってもらって、若い感性で拡げていき、活用してもらわない限り、なかなか十年後の絵が描けないなぁ、というのが目下の課題です。

 山本麻友美さん(京都芸術センター・チーフプログラムディレクター)若い世代の芸術家たちはどんな状況ですか?

山本 京都芸術センターは若い芸術家を支援する施設なので、彼らの動向もよく見聞きしているんですけど、「アーティスト」としてどのように活動していくべきか、情報や状況をシェアできる場があった方がいいんじゃないか、と考えているようです。それについて芸術センターのサポートは可能か…ということも聞かれています。

 何かが起きた時だけでなく、普段から情報交換ができる組織をつくりたいというのを聞いて、芸術家が集まり創設された文団懇(芸文協の前身)も、動きとしては同じようなことだったのかなと想像しました。このアーティストギルドのような動きについて、芸文協の先生方がどんな風にお考えになるか、一度おうかがいしたいと思っていました。

松尾 それはアーティストにとって大きな課題がからんでいますが、時代が変わっても、あまり状況はかわっていない、解決していないのかもしれませんね。

 今の複雑な社会にどう対応していくかというテクニックを整理していくタイミングなのかなと思っています。新しい深い問題も受け入れられるような仕組み、組織としてのかたちが必要とされているのかな。

近藤 違う感性を持つ人たちが、あるひとつの組織形態の中で連なることで、ひとりの経験や知識だけでは生まれえないものを生み出すことができる。専門化が進むこの時代において、相互作用が生まれる場をつくる、それを支援するということも我々が取り組むべきことかもしれない。

 

「文化」とは…

会場から 協会の創設からこの四〇年で、文化芸術に対してレガシーが残ったんでしょうか? ぼーっと過ごしてたのでは40年はあまりにもったいない。その検証は絶対に必要であるし、そうでなければ、新しい時代は迎えられません。そこをおさえないと「文化」を語れない。どう思いますか?

松尾 芸文協には様々な分野の表現者が会員として所属していますが、この長く深い(それ故に負の部分もある)40年の歴史と経験を、次の10年20年にどう渡していくのかということを考える転機を迎えており、検証は必須だと考えています。

 社会的環境は変わりますし、表現者が求めるもの、求められるものも変わってくるので、我々の取り組み方も変わっていかねばなりません。時代にあわせて考える人、そして仕組みが必要です。

 文化をひとことでは語れない、定義できないと日々感じています。「文化芸術」を掲げていれば社会の問題が解決するみたいに、みんな遠い目をしている…という現状が残念ながらあります。

茂山 「文明」と「文化」ってありますけど、不便だから便利にっていうのが、おそらく「文明」でしょうね。で、「文化」ってなんだろうかって考えると、私は〈反発〉じゃなかろうかと思ってるんです。

 いわゆる既成のものに対する反発。あるいは為政者に対する反発。それから自己への反発。そういう摩擦熱みたいなものから、芸術というものがうまれるのではないかと。要はなにかしら相手が要るんですね。

 「文化」はちゃんと反発の対象をみつけられないと、己に対しての反発(自己分裂)に陥っちゃう。でも「自分」って否定しながらも肯定しないと、人間は生きていけませんからね、やっぱり外のものに対してのアンチテーゼがないと、文化って小っちゃく収まっちゃう。

 戦前・戦後といわれる頃までは、反発の相手って割とみつけやすかったんです。アンチテーゼを生み出しやすい時代。でも今は社会の中に反発の対象がみつけにくくて、芸術がやりにくい時代なんじゃないかな。

 今流行っているものって、どれもわかりやすいですよね。為政者がうまくなっちゃって「文化のようなもの」を「文明」がつくっちゃてる。

近藤 生態系の枠を超えて人類がこれまでつくってきた便利な機械やコンピューターは周囲を度外視して自己の利益を追求する。そういった文明がもたらすであろう生態系へのリスクに対して、本能的な反発というものを、今、我々は感じているのかもしれません。

茂山 文明が進みすぎて、文化が追いついていないんじゃないかな。現代において「文化」っていうものが「何を語りあっているのか」ではなくて「何ができるのか」っていうところになっていて、文化としての姿勢みたいなものが、非常にわかりにくい。

 人間ってたぶん、どっかで自分さえよければいいって思ってるんですよ。だけど、いろんな「他者」っていうものを見つけた時に生じる「違うけれども一緒に生活していかなきゃいけない」という考え方、これがどうも「文化」の始まりのような気がするんですね。

近藤 私が思うのは、「文化は定義できない」ということ。文化に完結はないと思っています。永久に努力し続ける、考え続ける、求め続けるものであって、文化には到達点はない。これからのリレートークのキーワードかもしれないですね。

 

 

 

リレートークⅡ|成熟社会における暮らしと芸術・文化

リレートークⅢ|京都への視座ー京都文化の過去・現在・未来を考える

リレートークⅣ|歴代理事長による鼎談 ~ここから10年先の文化芸術のために~

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