活動レポート

リレートーク「藝・文・京」Ⅱ~成熟社会における暮らしと文化・芸術

DSC_0044.JPG

(写真:右から宗田好史さん、加藤 博史さん、菅原 直樹さん、山本 麻友美さん)

 

ゲスト

加藤 博史(社会福祉学者、龍谷大学名誉教授)

菅原 直樹(俳優・介護福祉士、「老いと演劇」OiBokkeShi主宰)

宗田 好史(都市建築学者、京都府立大学教授)

 

聞き手:山本 麻友美(京都芸術センター チーフプログラムディレクター)

採録・構成:渡辺健一郎

 

主催:公益財団法人京都市芸術文化協会

日時:2020年2月17日(月) 

会場:京都芸術センター 講堂

※公益財団法人京都市芸術文化協会 中長期ビジョン策定プロジェクトの一環として実施。


リレートーク「藝・文・京」Ⅱ~成熟社会における暮らしと芸術・文化

 老いや死は、自分に対しても、親に対しても、知らない誰かに対しても平等に訪れる。それは誰もが必ずいずれ向き合わねばならない「厄介事」である。近代社会はこの厄介事を、介護施設や病院、あるいは葬儀といった社会システムに任せることで簡略化(矮小化)してきた。お金を払って老いと死を隔離すれば、そこから目を背けることができる(と考えられてきた)。しかしとりわけ日本では、超高齢化が進行し、近いうちに「多死社会」が訪れるという。隔離の場は飽和し、システムは瓦解する。再び死が眼前に戻ってくる。

 

 今回のリレートークは、この苦境を受け止めつつ、その上でそれを逆に好機ととらえることができないだろうかというものであった様に思う。老いや死を、厄介事として排斥するのではなく、それに改めて向き合い、ある種の人間の本質として引き受けること。そしてそれによって今ある生を捉え直すこと。それによって、近代社会が失ってしまった人間の本来性を再考することができるのではないか——登壇者の三名には、芸術や哲学を通じて、その可能性を垣間見せていただいた。

 

 会の後半では、ご来場の方々に講演の話を受けて考えたことを話し合ってもらった。年齢や立場、障がいの有無などによって、我々は互いに異なる世界を観ている。それでもなお共に生きていかねばならない。語り合わねばならない。そのために芸術が、我々ができることとは何か——登壇者のお話は勿論、参加者の皆様の熱気のこもった意見をうかがって、そのための確かな「第一歩」を感じられる会となった。


「老い・ボケ・死」を地域で受け容れられる文化を

DSC_0012 (2).JPG

菅原OiBokkeShi(老い・ボケ・死)という劇団を主宰していて、岡山で活動を行っています。20代から老人ホームで働き始めたんですが、多くのお年寄りと接しているうち、実は老い・ボケ・死には豊かな世界があって、それと向きあうことで前向きになれることもあるのではないか、と思いました。老い・ボケ・死を隔離するのではなくて、芸術文化を通じて、それを地域で受け容れられる文化を創出するお手伝いができたらと活動をしています。

 2014年、劇団の活動の第一弾、介護者向けの「老いと演劇のワークショップ」を行いました。参加者に88歳のおじいさんがいました。その人は同い年の妻が認知症を患っていて長年介護をしているが、新聞の告知を読んで1時間半くらいかけて来たと。歩く姿がつらそうでしたし、耳が遠くてコミュニケーションが難しかったので、結構運動量の多いこのワークショップ(以下、WS)に参加するのは難しいかなと思った。ところが、演技をやらせるとまさに水を得た魚だったんですね。さっきまで耳が遠いと思っていたのに、芝居が始まると耳が良くなる。「どっちを演じてたの」みたいなことになった。話を聞いたら、定年退職後に憧れだった映画俳優を目指して、今村昌平監督の映画にエキストラで出演したこともあるらしい。これが劇団の看板俳優、岡田忠雄さんとの出会いです。それから5年間、今も現役で俳優として活動してもらっています。

 最初は彼の家にいってひたすら話を聞きました。介護の話から、戦争の話まで。そして妻が認知症を患って、徘徊をして困っていると聞きました。じゃあ演劇を通じて徘徊とは何かを考えてみよう、と立ち上げたのが徘徊演劇『よみちにひはくれない』でした。徘徊演劇なので、外で、商店街で上演しました。20年ぶりに帰省した青年が、昔可愛がってくれた近所のじいちゃんと再会。最近妻が認知症を患って、今も徘徊して探しているんだと聞き、青年が商店街におばあさんを探しに行くというストーリーです。

 商店街でやったお芝居なので、通行人が俳優に見えたり、町の音が演劇のBGMに聞こえたり、何がフィクションで何が現実なのか、その境界があいまいになっていく。話が進むにつれて、実はおばあさんが既に亡くなっていて、そのショックからおじいさんは認知症を発症、いないおばあさんを探しているっていうことが分かってきます。お客さんがそれを通じて認知症の人が観ている世界を想像できれば、というお芝居でした。

 最新作は、去年の11月に上演した『認知の巨匠』。5年間で岡田さんも歳をとって、できないことが増えてきた。しかし「認知の巨匠」では、もっと台詞をくれということで上演時間2時間半のうち、2時間しゃべりっぱなしでした。歳をとっても、信頼できる人、自分の好きなことを共有してる誰かが現れると、お互いに何か自分の引き出しを開け始めるんですよね。こんなこともできる、こんなこともやりたいと、信頼関係を築けているメンバーの中では、どんどんできることが増えているんですよね。これは演劇に限ったことではなく、介護やその他色んなことに通用することなんだと思います。

 最後に、介護者向けの俳優WSで話している内容を紹介します。見当識障害、記憶障害などの中核症状があるから認知症の人におかしな言動があるのは仕方がない。しかしそれを介護者が訂正したり失敗を指摘したりしていては、認知症の方々はかなり傷ついてしまう。なので認知症の人と関わるときには、その人が観ている世界を尊重して、僕らの常識からすると間違ったことを時には受け入れたり、僕らには見えないものも時には見たふりをすること。そういう演技が結構必要になってくるんじゃないか。

 昼の老人ホームの居室。介護職員がご飯の時間ですよと声をかけても、認知症のおじいさんが「これから仕事だ、スーツを着なきゃ」って言ったりして応じてくれない。彼が元サラリーマンで出張が多い生活をしていたが、まだ老人ホームに入って2週間しかたっていないという場合に、ここどこだ、そうだ出張でホテルに泊まっているんだと勘違いするかもしれないですよね。そこにガラガラっと扉が開いて、ごはんの時間ですよって言われてもコミュニケーションは成立しない。

 相手の世界を無視して「現実」に引きずりこもうとしても、言い争いの様になってしまいます。そうではなくそれを尊重して「じゃあスーツ探しましょうか」と話をあわせると、自然とお互いに信頼関係が生まれて、「私探しますんでごはん食べましょう」と言うと結構応じてくれたりするんですよね。

 中核症状は、認知症には必ず伴いますが、一方行動心理症状は置かれている環境や個人によって、生じる生じないがある。中核症状は仕方のないことですが、無視とか否定といった不適切な関わり方をすることによって、感情が傷ついて、BPSD(行動・心理症状)が発症するんじゃないか。WSでは、認知症の人の役として否定や無視をされる経験もしてもらいます。そうするとここは居場所じゃないんだ、外に出ようと思ったと、感想でおっしゃって下さいます。逆に言えば人間だれでもそういう状況に陥ったら、行動・心理症状を発症するっていうことですね。こういったWSをやっています。

 

悲しみを深く味わい、楽しむ文化

DSC_0015 (2).JPG

加藤:私が勤めていた龍谷大学に、知的障害の重い方も含めた方々が通ってこられて、学生と一緒にお芝居を創ったり音楽を創ったりする、「ふれあい大学」という名前の授業があります。障害のある方が大学という若者文化の中に通ってきて、学生が触れ合う機会を持てるという意味で、非常に意義のある活動です。その中に、重症心身障害の施設に入所する女性がいます。体幹は一切動かすことができなくて、特注の車いすに乗って全部介助されている方です。そんな人が4年間通ってきて、お芝居をされる。彼女を介護しているヘルパーさんに言わせると、「ふれあい大学」のある日はオーラが違う、言葉は出ないけどいきいきとしているのが分かるっておっしゃるんです。重い障害のある人の人間的な価値っていうのはいったい何なんなんだろうか。それは「できる、できない」っていう価値ではなくて、「あることそのもの」の価値だと思います。「100点をとった“から”可愛がる」などといった条件なしに、生きてることそのものを大切に思う。その大切に思う/思われるという体験こそが、共に生きていくことの核心だろうと思います。

 次に、日本を代表する哲学者の中村雄二郎という人が、今の社会に失われているのは、パフォーマンス:身体、シンボリズム:意味・物語、そしてコスモロジー:宇宙も含めた自然の世界であると言っています(1)。私流に言い換えると、「身体を使っての体験と表現」、「意味の世界、言葉化する前の世界との交歓」、「星の時間、悠久の感得」ということ、つまりアートの世界です。これらは、かつて当たり前だったけれども、失われてきている。演劇や芸術、あるいは信仰も、この三つで成り立っている。京都はこのコスモロジー、パフォーマンス、シンボリズムの伝統が、非常に分厚くある、そういう世界ではないかなと思います。しかし、イギリスのアンソニー・ギデンズという社会学者が、現代社会は「経験が隔離」されてきているということを言っています(2)。先ほど菅原さんからも老いやボケを隔離するという話がありましたが、年寄りはボケたり病気になったりすると、病院や施設に送られる。死ぬ前になると、家庭で頑張ろうとしても結局病院に行くしかないとなったりする。その後は葬儀会社が上手に死体を処遇してくれる。老いや病や死の経験が隔離されてきていて、暮らしの中で経験することがなくなった。これは恋愛や性愛の経験もそうだし、子どもを育てるっていう経験もそう。色んなプロに任せていってしまう。昔の学校の先生は、生徒が悩んでいたら一緒に真剣に悩んでいましたが、今は何かあったらすぐスクールカウンセラーに任せてしまうんですよ。「老い」に関しても、苦しみや悲しみをいっぱい経験しないと、年齢を重ねるだけでは「成熟」はできません。実体験を、色んな形で取り戻していくっていうことも必要じゃないかなと思います。先ほど菅原さんが、認知症は隔離するものではなく生かすものだ、そして相手の観ている世界に寄り添うものだとおっしゃいました。この京都芸術センターでは、薬物中毒依存症になった人のための施設「京都ダルク」と一緒になってお芝居やダンスを作り出したという。そういうことがもっともっと、この社会の中に、我々の生活に仕掛けられていく必要があると思います。

 日本は「悲しみの文化」を大切にしてきました。心の世界のことを一生懸命研究したフロイトという人が、悲しいことがあったときに、しっかり悲しまないとうつ病になってしまうという論文を書いています(3)。統合失調症やうつ病になりやすい人は、甘えることを悪いことだと考え、恐れている。だから助けてと言えない。「憂き我を さびしがらせよ 閑古鳥」という芭蕉の句があります。うっとうしい自分を、寂しさが逆に救うということ。ある意味で悲しみを深く味わい、楽しむ文化ですかね。傷つくことができる心、中井久夫はこれを「ピアニッシモの心」と表現していますけれども、だんだんそういう心が追いやられる様な文化が広がってきていると思うことがあります。芸術を通して、ピアニッシモの心を持った人達を、社会の真ん中に置く様な、共に生きていける様な、そういう地域や社会が創られていったら良いなと思っています。課題として、受けとめていきたいと思います。

 

老いた寂しさ、腹立たしさ、むなしさ、怒りを文化に

DSC_0030 (2).JPG

宗田:20世紀以降になって日本では特に、歳をとっても「若作り」をするっていうことが国民的な使命の様になってきています。だから、若くなくなってしまったということで落ち込んでしまう方がいます(4)。どう歳をとり成熟するかということと、「失われた30年」の間の色んな社会的変化に伴って生じてきている問題とを関連付けて、お話してみたいと思います。

 我々の平均寿命は急速に伸び、50歳を超えたのは第二次世界大戦後。1950年代に60歳になった。それが今や、80~90になってきた訳ですが、この20~30歳延びた人生をどう過ごすか。お金があって健康で、友達もたくさんいれば良いという風に捉えるのか、それとも老後こそ社会貢献をすべきだとするのか。実際に70代の後半でもJICAの海外協力隊で、発展途上国で活動されている方たちがたくさんいます。決してそうしろと言うのではなく、今の社会は様々な立場の方が混在しているということです。従来の様な社会の仕組みや価値規範は変わってきています。年配の方の経験や知恵が、そのままでは活かしづらくなっていて、若い世代に伝えるためには上手に現代化して、翻訳して語っていく必要があります。

 これは、2017年にACジャパン広告学生賞で準グランプリをとられた学生の作品です。私自身も、母を施設に入れるっていうことに関して、弟とかおばとか、隣近所の人達と、随分話をしました。同時に、介護難民や、老老介護で倒れるかたもおられます。私は今とても恵まれた状況にあると思って感謝しておりますが、こういう現状が、なかなか社会で理解、共有されていない。しかし皆で考えなければという時期だと思うんです。

 例えば家族親族の中でどう歳をとっていくか。子どもに迷惑をかけちゃいけないから「私、特別養護老人ホームに入るね」と言う。しかしそれを言われる子どもも困ります。果たしてそれで良いのか。逆に家にいたいからあんたが地元に帰ってきなさい、と言われてもちょっと困る。じゃあどうするか。高齢者が従来よりも長く生きているという誰も経験したことのないこの時代、歳をとるとはどういうことかを改めて考えなければならない。肉体の成熟よりも精神の成熟ですね。学習と経験によって、いままでの若い時の様な行動をせずに、十分熟達している豊かな中身を持つ様な、ちょうどお能の所作、お茶の所作にある様な、考え抜かれて洗練された、研ぎ澄まされた、行動が必要なのではないか。

 死亡数が増加や死亡率の上昇の問題もあって、2030年くらいから、年間約160万人以上の方が亡くなる多死社会の時代がきます。そうなると火葬場が十分あるか、ご遺体を安置する場所はどうかという問題も出てくる。今、墓地、埋葬の多様化、簡素化が進んでいます。あるいはまた家族葬が多くなり、香典が要らないといった葬儀の簡略化も進んでいます。それから最期の看取りが合理化されています。ここが、成熟っていうことの熟慮が試されることだと思うんですよ。戦後から今まで、日本では病院死が増え続けていますが、今後は病院だけでは大変で、在宅や施設ではどうだ、ということが進んできている。どういう施設を用意し、どういう場所でどう亡くなるかというのは、個人の問題に限らない、社会全体の問題です。

 過疎化が進んでいる地域では、家を閉じ、親族を整理し始めている。墓や仏壇から始め、徐々に親から受け継いだ土地だとかを整理し、資産を除去していく。また、隣近所の付き合いを畳んで、地域活動を縮小、若い移住者にゆずるなりして、都会の孫子とつながりが模索されている。また住んでいる町を維持するっていうことは難しいですし、無理にしない方が良いですから、居住人口は無理でも通住人口、通ってくれる人を増やすといった様に、たたみかたを上手にしていくっていうことが「コンパクトシティ」という考え方です。

 ここから、人生のたたみかたについても最後に考えてみます。万葉集で言う「相聞歌」の様な恋の歌から、我々は恋愛のことを学びましたよね。ただ同時に「挽歌」の様に、どう老いるか、人をどう送るかということも芸術作品の中では沢山描かれている訳です。歳とった方たちの幸せそうな絵であったり、キリストの亡骸を抱えて泣いている聖母マリアの表情から、何を我々が読み取るかっていうのも大事なことです。また芸術ということで、自分を磨く教養としてではなく、本当に死が怖い、老いていくことが嫌だ、でもそのことに腹の底から何か深い感動を与えてくれる、そういうアートに関心があるんじゃないか。皆が幸せに老いて、亡くなっていくわけではない。皆が立派な子どもを持っている訳でもお金がある訳でもない。それは寂しいけれども、それを上手く表現し、文化にしていく。老いた寂しさ、腹立たしさ、むなしさ、怒りを文化にするということ。それが多分、成熟っていうことだろうと思うんですね。

 

 後半はリレートークを聞きにいらっしゃった方々にグループを作っていただき、それぞれに今日の感想や、成熟することについての皆さんの考えを話し合っていただいた。介護の現場での「演じる」というふるまいや、どう人生を畳んでいくのかについてなど、様々な意見が飛び交いました。

 親を介護施設に預けることの後ろめたさをどう考えたら良いか、あるいは福祉と芸術文化のつながりに関する、欧米の事例はあるのか、といった質問もあがり、会場は大きな盛り上がりを見せました。

DSC_0040 (2).JPG

 

以下は、会場の意見や質問を受けての登壇者の方々からの返答です(抜粋)。

 

菅原:2年前、老人ホームでお芝居を上演しました。芸術作品を観て、色々感じたことを話し合ったり、出会ったりする場が重要で、もしかしたら老人ホームが地域の老いの文化拠点みたいな感じになることもできるのではないかと感じました。

 海外の事例では、オランダのホブウェイ[Hogeweyk]という介護施設は6つの棟に分かれていて、入居者の関心によって住む棟が変わる。音楽が好きな人はこの棟、料理が好きな人はこの棟、という風に。またイギリスのある市がデイサービスを劇場に依頼した。日本のデイサービスのレクリエーションは「ちいちいぱっぱ」的なところがあって、嫌がられる場合もありますが、この例では芸術家が一緒になって劇場で本格的な舞台作品を作ったりする。

 人手不足の介護施設は、効率優先で文化的なものをどんどんそぎ落としてしまいます。よりおいしくご飯を食べ、より気持ちよくお風呂に入るといった「文化」も含めて。老人ホームや介護の現場に芸術文化の視点を取り入れるだけで、大分雰囲気は変わってくると思っています。

加藤:淀川キリスト教病院のホスピスをなさっていた柏木先生から直接聞いた話ですが、死ぬときにあたたかいものを残して死んでいく方と、冷たい何か怖いものを残して死んでいく方がいると。その違いは、その人が生きてきた姿そのものだったとおっしゃっています。あたたかいものを残して亡くなる、それは我々が老いていくことの最後の仕事ですが、それはまわりの人の幸せを自分の幸せと思えるかどうかに尽きるんではないかなと思います。

宗田:親の介護を自分でしないことに後ろめたさを覚えるということの背後には、時代における規範のずれがあります。規範がずれた時に、古い規範と自分を比べて、後ろめたさを感じる訳じゃないですか。しかし「あなた」を犠牲にしてまで守らなきゃいけない規範なんてない。あなたの幸せが一番大切なんだと、周りが皆思っているという、そういう社会であって欲しいなと思うじゃないですか。それで行くと、菅原さんの「老人介護の現場に演劇の知恵を、演劇の現場に老人介護の深みを」っていうキャッチフレーズですが、これだけ日本全体で抱えている老いやボケや死の問題を、これだけアートのレベルにまで高めたっていうのはすごかったです。


ゲストプロフィール

加藤博史

社会福祉学者。龍谷大学名誉教授、(社福)京都光彩の会理事長、(公財)京都市障害者スポーツ協会理事長。14年間、精神科病院にソーシャルワーカーとして勤務後、京都文教短期大学を経て、龍谷大学短期大学部教授。京都市障害者施策審議会会長などを務める。2013年「京都ヒューマン賞」受賞。著書に『福祉とは何だろう』(2011年)、『地域福祉のエンパワメント』(2017年)など。

 

菅原直樹

俳優・介護福祉士。「老いと演劇」OiBokkeShi主宰。「老人介護の現場に演劇の知恵を、演劇の現場に老人介護の深みを」という理念のもと、高齢者や介護者と共に作る演劇公演や、認知症ケアに演劇的手法を取り入れたワークショップを実施。超高齢社会の課題に「演劇」というユニークな切り口でアプローチする。平成30年度芸術選奨文部科学大臣賞新人賞(芸術振興部門)受賞。

 

宗田好史

都市建築学者。京都府立大学教授。国際連合地域開発センターを経て、国際記念物遺跡会議(ICOMOS)国内委員会理事、京都市景観まちづくりセンター理事などを歴任。著書に『中心市街地の創造力』(2007年)、『町屋再生の論理』(2009年)など。縮小する社会についての講演にゲスト出演するなど、活動の場を広げている。


(1)中村雄二郎は各所で演劇の、あるいは人間の根源にこの三項を位置付けている。中村雄二郎『臨床の知とはなにか』(岩波書店、1992年)など。

(2)アンソニー・ギデンズ『モダニティと自己アイデンティティ―後期近代における自己と社会』(2005年)

(3)ジークムント・フロイト『喪とメランコリー』(1917年)

(4)熊代亨『「若作りうつ」社会』(講談社現代新書、2014年)

戻る

芸文協の会員