活動レポート

リレートーク「藝・文・京」Ⅲ~京都文化への視座ー京都文化の過去・現在・未来を考える

京都市芸術文化協会創立40周年にむけて、リレートーク第3弾!

第3回となるリレートークは、新型コロナウイルス感染拡大防止を鑑み、

無観客収録およびweb上での動画配信というスタイルとなりました。〔動画は近日公開〕

…まずはテキストでお愉しみください!

京都文化への視座ー京都文化の過去・現在・未来を考える

|ミニレクチャー|

 村井康彦(相談役・元理事長/歴史家)

  ①文化が発祥・発展する場としての「町」ー 諸司厨町〔しょしくりやまち〕

  ②現実主義と生活/芸術 - 漢才〔かんざい〕と大和心〔やまとごころ〕

|トークセッション|

 茂山あきら(理事/大蔵流狂言方) 松尾 惠(理事/ヴォイスギャラリー主宰)*オンライン参加

 進行:中谷 香(専務理事)

 はじめに…

 今回のリレートークの前半では、京都の芸術文化が成立し、日本中に伝播していった歴史的条件について語られている。平安時代の役人たちが自らの仕事を基に同業者の座を作り、それが禅宗文化などと融合し次第に町の文化へと馴染んでいった。具体的な生活から生まれた芸術が、今なお確かに京都には根付いているが、その要因としての「大和心」に話は及ぶ。これは通常「日本的美意識」といった抽象的な何事かに結びつけられがちだが、この語が初めて登場した『源氏物語』ではむしろ現実的な処世術を表していた。そしてまさにこの現実への視座こそが、日本文化を基礎づけ、豊かにしているものであるとされる。

 後半のトークセッションでは、大岡信の評論『うたげと孤心』が取り上げられ、芸術をめぐる「個」と「共同性」が問題にされる。一見対立するとも思えるこれらの観念は、しかし芸術を可能にする二つの要因であり、どちらかが欠けても立ち行かなくなってしまう。芸術文化協会がまさに考えるべき問題が極めてクリアな形で提示されている。

 コロナ禍やそれにともなう財政のひっ迫など、芸術の創作環境をめぐって様々な「現実」的諸問題が生じている現代、これをどう考えるか。歴史的な視座から出発して、未来を見据えるための鍵となる思考が凝縮された、極めて濃密な会となった。

 

京都文化への視座 ― 京都文化の過去・現在・未来を考える〔村井康彦〕

 京都市の芸術文化協会が来年40周年を迎えますが、改めて協会として過去を振り返り、現在を直視し、そして未来に向けてどう進んでいくかを考え、それに取り組んでいくことが必要だろうと思います。

 歴史を勉強した者として、歴史的な観点から、京都の文化や芸術をどういう風にとらえるか、どういう風に芸文協のこれからに生かせるかということが私に課せられた問題です。しかし「歴史に学ぶ」と申しますが、なかなかそう簡単なことではございません。今日は限られた時間ですが、関わりがあると思われる二つのテーマについてお話してみたいと思います。

 

文化が発祥・発展する場としての「町」-諸司厨町

 その一つが、平安京にあった諸司厨町[しょしくりやまち]についてです。大内裏の中にはたくさん役所がありましたが、朱雀大路をずっと北に上がって突き当たったところが大内裏で、その中に、内裏=居所[図1]を中心にして、その周辺に役所がたくさん集まっていた。古代国家の統治の中枢機関がここに集中しておりました。

 そこに勤める官人たちは、貴族を含めて数千の人間がいたと考えられています。その中でも下級官人[i]たちが、仕事がない非番のときに、京中に下がって休む場所が諸司厨町でした。厨というのは台所、そこで食事をしたり寝起きをしたりする場所で、それが役所ごとに京中に設けられていたんです。

 そこでこれを諸司(役所)の厨町といい、また「官衙町」[かんがまち]とも称しています。平安京が作られたごく初期の段階では、こういう役所町がたくさんありました。この諸司厨町は、やがて平安貴族が盛んな時代になると、これらは貴族の邸宅などに取り込まれて崩れていくんですが、その過程で官衙町に住んでいた人達は、自分たちが勤めていた役所の機能をテコにして、それぞれ職種の集団、いわゆるギルド=座を作っていきます。奈良では興福寺などにたくさんの座がありましたけれども、官衙町、諸司厨町由来の座が多いというのが、京都の中世における座の特徴です。

 その一つに、大舎人座がありました。ところで平安時代は、官人たちの報酬はみんな米や衣類などの現物支給でした。特に行事がある場合にはそれに従うものに衣服を与えたので、衣服作りに当たる織部司の仕事は膨大だったと言えます。その織部司の町が織部町[図2]ですが、この織部町の東側に、大舎人町があります。大舎人というのは、中務省[なかつかさしょう][ii]に属していて、衣服の生産には関係ないんですが、隣り合っていたことである時期混交が起こり、そこに住み着いた織り手たちが大舎人座を名乗るようになったと考えられるのです。そして応仁の乱(1467-1478)のあと、織り手たちが、西軍の陣地=西陣の跡地に住み着き、大舎人座を名乗るようになった。西陣織の織り手たちのふるさと、発祥の地が実はここであったと言えましょう。

 これは織物に関わった人達の座ですが、大内裏の中には色々な種類の役所がありました。衣食住関係、芸能関係、学芸関係、様々なものについての座が生まれた。座でなくとも、特定の人達が機能を受け継いで自分の仕事としていき、それが中世まで続いていく。京都の場合は王朝文化や芸能に関して、単に「みやび」といった抽象的な美意識が受け継がれているのではない。具体的な形でものを作ったり、演じたりするような形で受け継がれていくということが特徴的であり、大事なことだと思います。京都に伝統工芸が数多く存在する理由のひとつです。

 ところで応仁の乱の京都の町の範囲は狭くなりますけれども、その中身の密度が高くなる。いわゆる「両側町」(道路を挟んだ両側の人達がひとつの町を作る)がそれですね。これは長い生活を通じて作られた生活の町ですが、それは行政も認められることで、正式な町として発展していく。その典型が山鉾町です。生活を通してできた町の人達の共同体に支えられて、祇園祭も行われている。京都という町は、この時代、衰えたとは言え天皇、公家がおり、また建武の中興以来、たくさんの地方武士が上洛して京都に住むようになります。そういう武士たちが、在京大名、在京武士として、京都にたくさん、公家以上に住む様になった。

 また、五山の禅宗の果たした役割は大きい。禅宗ほど生活文化に関わった宗派はないと思います。朝起きてから夜寝るまで、一挙手一投足が修行であるとして、ものを食べる、花を活ける、香をたく、お茶をそなえる、全て大事な修行だとされて、これが生活文化のベースとなっていく。禅と生活文化は一見かけ離れているように見えますけれども、実は密接にかかわっていた。

 そして何と言っても、この時期になって成長してくる町衆が文化の新しい担い手になってきます。その他、あちこち旅わたらいをする連歌師や琵琶法師といった、地方の情報を伝えてくれる人達も、京都には沢山いました。これだけ多様な人間構成の都市というのは珍しい。町衆が成長してきたというこの時期に最も多様な都市民の構成が見られたと言えると思います。京都のそういう多様な都市民構成が、複合文化芸術を生み育て、伝えていく上で重要な意味を持っていたと考えます。

 

現実主義と生活/芸術 ー 漢才と大和心

 「漢才[iii]と大和心」という二番目の話題に移りたいと思います。この言葉は、紫式部『源氏物語』の「少女[おとめ]」の巻に出てまいります。光源氏の息子・夕霧が元服して、いよいよこれから貴族社会の仲間入りをするというとき、縁者たちも夕霧がどんどん成長して活躍することを期待していましたが、光源氏はそれを抑えて大学へ行かせます。貴族の息子たちが、親の威光で若くしてどんどん立身出世し、皆からちやほやされても、親が死んだり状況が変わったりすると、やがて人々から見向きもされなくなってしまうというのが理由でした。政治的な才能―それを大和心と称しているのですが―は、漢才の支えがあって初めて生きてくるそのために、勉強をさせるという話です。

 藤原時平[iv]があるとき派手な衣装を着て参内し、醍醐天皇から厳しく叱責された。周りの人はびっくり仰天して、それからは派手な衣装を謹むようになった。実はこれは、時平が天皇と示し合わせて、わざと仕組んだ芝居であったとおいうのです。時平という人は、そういう大和心のある人だったという話です。大和心というのは、日常生活において、様々なことにうまく対処するという処世術、そういう意味合いを持っている言葉であったんですね。日本人はそういう意味で、結構現世主義、現実主義であったと言えるように思います。日本では9世紀末から10世紀初めに、世界に先んじて、「私日記」が登場してきますが、そこで本音が語られているというのも、現実主義と無関係ではないという風に思います。そして、日本人のそういう現世主義がベースになって、やがて中世になって生まれてくるのが、生活芸術、生活文化と言うべきものではなかったでしょうか。お茶を飲む、ご飯を食べるというのは日常生活そのものです。それをある種非日常化して、一つの形式にする、型を作っていく、そしてそれを楽しむという、ある意味では文化の一番贅沢な姿ではないかと思います。そういう生活文化芸術が、中世になって形あるものになっていく訳ですが、そのベースは既に平安時代に生み出されていた。それが紫式部によって初めて取り上げられたと言って良い。そういう日本人の在り方、いわゆる日本的な文化が育ったのが王朝時代だと思いますけれども、それが京都を場として育ち、やがて京都という枠を越えて日本特有の文化になっていくんだと思います。これは京都が、物が集まり人が集まり、また散っていく、そういう都であったからこそだと思います。

 二つの話題についてお話してみました。後のお話の材料になるか分からないと思いながらしゃべりましたけれども、後は宜しくお願いいたします。

 

トークセッション

寄合〔よりあい〕と孤心〔こしん〕と芸術

中谷

 まずは感想を茂山あきら理事と松尾惠理事にお願いしたいと思います。

茂山

 いわゆる貴族文化という非常に高揚したものが、町衆に降りて行って、禅宗の文化と上手く融合し、咀嚼されて、京都文化になっていった。そしてそれが大和心に移っていく。そういう我々のルーツの在り方が非常によく分かった気がします。

松尾

 多様な都市構成が王朝文化を伝えていく要件であったということを、非常に興味深くうかがいました。京都は年齢や経験、あるいは国籍や民族によって全然見え方が違っていて、いつも何かしら違ったものを提示してくれるところに魅力を感じます。観光都市のイメージがあるかと思えば、全くそれとは違う受け止め方ができるという多様さは、現在でも同じであろうかと感じました。

村井

 先年亡くなりました、同級生の杉本秀太郎さんは鉾町のど真ん中に住んでいました。戦後、祇園祭を町衆の文化であると高く持ち上げる動きがあったときに、彼が私に「そう気楽に町衆の文化と言うな!」と言ったことがある。町共同体の文化ですから、やっぱりしんどいことがたくさんある。そういうものに耐えて祇園祭があるのを、よそ者が騒ぐなと。私は鴨川の東、昔はド田舎の北白川村にずっと住んでいますから、京都の一番大事なことは分かっていないという自覚があり、それを失わない様にしているつもりです。

中谷

 次に、芸術文化協会はこれから京都の芸術文化の中でどういう役割を果たしていったら良いのか、先生のご意見をいただけたらと思います。

村井

 ずっと花のことを調べていて、ある時期はっと気づいたことがありました。茶寄合っていう言葉があるのに、どうして花寄合という言葉はなかったのかと。茶の世界では茶勝負なんかでみんなが寄り集まって、時には賭けをしたりする。やがて整備されて茶の湯になっていくんですが、同じ時期盛んであった花の世界では、七夕になると、前日に花瓶と花材を持ち寄って、花を立てて、座敷に並べる。そして七夕当日になりますと、法要の後、集まった人達が連歌や和歌の会をやったりししていましたが、そこでこれを花座敷とか、花座席と呼んでいました。花で飾った寄合の場なのですが、花寄合とは言わなかった。思うに花を「立てる」というのは、ある種の芸術的な意志があっての行為ですが、それは一人で行うものでしょう。かりにグループで生ける場合でも、最終的には一つの意思で生ける。茶寄合は、複数の人間がいなければ成り立たない、もともと寄合の芸能でしたが、花は個人で行われるものだった。それが花寄合という言葉を生まなかった理由だろうと思います。

 寄合の文芸、座の文芸、という風な寄合性が、中世の文化の特徴であると言われ、私などもそれを重視し強調もして来ましたが、大岡信さんが『うたげと孤心』[v]という本で、簡単にいえば、芸能は皆でワイワイやるけれども、その中で孤心を持つのでなければ、本当の芸術にはならないんだ、と言っておられる。やたらと寄合性だけを強調する考え方に、大変厳しい見方をしておられました。これを読んだ時、正直ショックを受けました。

 実はこの5~6年、藤原定家の『明月記』[vi]を読んでいます。私日記ですから、なにがしかの「わたくし」は出てくるものですけれども、これほど自己中心的な日記は、ちょっと珍しい。新古今の時代に和歌の歴史は頂点に達していたと思うんですが、それは本歌取りといった作為の勝ったもので、歌の世界で「わたくし」が徹底された結果です。定家は、他の人は「歌よみ」で、自分は「歌つくり」であると言って、非常に作為的に歌を作り上げていったために、定家の歌はよく分からんと言われていた。しかしやっぱりそういう個=わがままに徹するということが、芸術を生み出す一つの重要な要素なのかもしれません。

松尾

 寄り合うにも、己をちゃんと知っていないと本気で寄り合えないなという想いはいつもあります。意志を持って寄り合うということを、このコロナ危機によって、改めてまざまざと感じています。根本のところでは己、個、わがままですね。これがやりたい、これを目指すっていうところを、しっかり持ったうえでの「寄合」。

村井

 芸文協という、文字通り寄り合うための機関ができたことには、バラバラで存在していた人達を結びつけるという大変大きな意味がありました。次に、指定管理者制度で芸術センターという発表の場ができて、芸文協が今度は人と場をも結びつけられるようになった。今大事なことは、芸文協と芸術センターとが、お互いどういう風に機能しあうのか、もう一度話し合うことではないでしょうか。お互いに共通する年間のスケジュールを持ち、それぞれの仕事が互いに共有される様な形が必要なんではないか。でないと、一緒に同じ場所に生活しながら、一緒ではないという感じになっているんじゃないかということを、一番痛感していました。

茂山

 寄り集まりでも、寄合までいっていなんですよね、まだ。ある瞬間にだけ一瞬磁石の様にぴっとくっついても、それ以外のときは離れちゃっている。それは恐らく、多分芸文協の方の内部が未整理だからなんです。組織的にしっかりしようと思うならば、内部をもう少し整理していって、関係性をちゃんとわかっていかないと。どうも皆さん、お山の大将に近いんで、「俺は、俺は」と個が出すぎているところがある。そこがもう少しひとかたまりになれば良い。

村井

 芸術家っていうのは、大体わがままなので、それをまとめていくっていうのは、それ自体が大変難しいことです。しかし何か共通項を見出してやっていかれることを是非お願いしたい、期待したいという風に思っています。

中谷

 有難うございました。



[i] 官人の中でも、役所の実際の仕事を受け持っていた人たち。

  位で、五位以上が貴族、六位以下が下級官人とされる。

[ii] 律令制の八省の中で最も重要とされていた省庁。

  天皇の国事行為に関わることなど、朝廷における政務の一切を担っていた。

[iii] 中国由来の学問、あるいはそれに精通していること。

  一般的には日本固有の精神としての「大和心」と対置されるが、ここではその捉え直しが行われている。

[iv] 平安時代前期の公家。醍醐天皇の治世に左大臣にまで上りつめた。

  菅原道真を陰謀により左遷させたという悪役のイメージでよく知られている。

[v] 1973年から6回に渡り、『すばる』で連載された。

[vi] 鎌倉時代の公家、藤原定家による長大かつ克明な日記(1180-1235)。

  定家は『新古今和歌集』の編者の一人であるが、当時としては極めて斬新な手法を用いて歌を「つくって」いた。

 
 

テキスト編集:渡辺健一郎

 

この講座は、公開講座ではなく収録のみで執り行われました。

(収録日:2020年7月6日)

 

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